阿波藍のしじら

阿波藍のしじら

明暁に向かいて その51 番外編 

明治十一年五月

「今日はこれから京橋に出掛けてきます」

 斎藤の着替えを手伝った千鶴は、寝間着を持って部屋を出て行った。斎藤は居間の鴨居に掛けた刀置きから打刀をとると、お膳の上の湯呑みのお茶を飲み干して玄関に向かった。千鶴が弁当の包みの入った袋を持ち寄り、靴を履いた斎藤に手渡した。斎藤は玄関の戸を開け足早に敷石を跨ぎ出て行く。

「いってくる」
「お気をつけて行ってらっしゃいませ」

 千鶴が門の傍で見送り、斎藤は振り返り頷いた。年に一度の検疫の為、一週間前に神夷を逓信省の馬場に預けた。小石川診療所の厩も二日前に検査を受け、結果が出るまで斎藤は乗り合い馬車を使って出勤している。千鶴は日中に出来た時間を夏の衣替えに充てようと張り切っていた。今日は京橋でお多佳とおさよと待ち合わせ。夏物の反物を見に行く約束をしている。お多佳の知り合いの店で珍しい阿波藍の織物を扱っていると聞いて楽しみにしていた。斎藤を見送った後、千鶴は隣家のお夏に子供たちを預け、急ぎ乗り合い馬車を乗り継いで町へ出た。京橋近くの北紺屋町のお堀端は、藍染めの布地が棹から垂れ下がり、薄藍、濃藍、水色と美しい碧の濃淡が広がっていた。お多佳に案内された店はこぢんまりとした佇まいで、外の眩しさとは対照的に薄暗い。

「いらっしゃいませ」
「ようこそおいでくださいました。お待ち申し上げておりました」

 土間の向こうから顔をだした愛想のよい主人は、紺の作務衣に鮮やかな藍の前掛けをした姿でお多佳たちに会釈をすると、上り口の畳敷きの間に手招くように藍の座布を並べた。主人が店の奥に声をかけると、「はい、いますぐまいります」と女の人の声がした。藍の暖簾の向こうから、現れた女性を見て千鶴は一瞬息を呑んだ。中背の女性で顔がこぶしぐらいに小さく色白で、切れ長の瞳に薄化粧、ほんのりと紅をさした唇。大きく結った銀杏に鼈甲の簪。なによりも目をひくのが、纏っている鮮やかな藍縞の長着だった。

「姐さん、ご無沙汰をしております」

 お多佳は身仕舞を整えるように、綺麗に正座をし直すと丁寧に両手をついて挨拶した。その隣でおさよも同じように深く両手をついてお辞儀をしている。脇に持っていたお盆を置くと、姐さんと呼ばれた女性も畳に両手をついて丁寧に挨拶した。

「よくきてくれたね。元気そうで」
「はい、お陰さまで」
「おさよも、ほんとうに綺麗になって」

 笑顔で話す女将は、お多佳とおさよを昔からよく知っているようだった。はにかみながらも、おさよは褒められたことを嬉しいと礼を言っている。お多佳は千鶴を女将に紹介した。

「こちらはわたしと歳三さんが大変お世話になっている藤田千鶴さんです」

 千鶴は丁寧に挨拶した。女将はお盆からお茶を差し出すと、お多佳と世間話をするように今年はしじらが流行るかもしれないと云って、店の奥に下がった主人にも反物を揃えてもらうように声をかけた。

「千鶴さん、姐さんは着物のこと、着こなしや反物小物、知らない事は何もないぐらいでね。よい品物を見立ててくださいますから」

 お多佳は笑顔で出されたお茶を飲み、その間に女将は手際よく運ばれた反物を台の上に並べて行った。千鶴はお多佳に促されて、敷物の前に立てられた姿見の前に正座した。

「今年はね、細かな縞がようございます」
「しじらは素肌に纏うと涼しいんです。阿波の職人が織ったものは表が均等になっていて、模様が大層綺麗です。それでいて裏はこんな風に糸が膨らんだ部分と細い部分に風が通るようになっていて随分心地がいいんです」
「こうやってみると、縞に織りの模様が浮かんでいるのがよくわかるんです。着物にすると同じ藍でも濃淡がでて大層美しいんでございます」

 女将は反物を広げると、端と端を寄せるように合わせて明かり取りから射す陽の光が当たるように千鶴の手の上に寄せて見せた。確かに細かな藍の濃淡に薄い黄緑の縦線が入ったように見える。布の表面はざらざらとしていて、麻より柔らかく透けた感もあり涼し気な生地だった。女将は縞模様の太さの違うものを数点並べてみせた。

「お客様、お好みの色はございますか
「藍はなんでも合います。お好きな色がはいった縞がようございますよ」

 女将は千鶴の顔の傍に反物を広げては、鏡に映し、「これもお似合いです」「お客様のお肌の色には濃い藍と、そうですね薄い桜も」と言って、奥から新たな反物を揃えてみせた。千鶴は同じ藍なのに、その濃淡の多さに驚くばかりだった。一つ一つが異なる碧。そして、鏡に合わせた布地から想像する着物はどれも印象が違って見えて、選ぶのに大層苦労した。千鶴は女将の勧めで好きな桜色の入った細かな縞を選んだ。

「素肌にそのまま着ても涼しくて、肌に纏わりつかないし、汗の匂いも防ぐ。夏着には藍しじらが一番でございます」

 女将は縞に合う帯を並べた台を引き寄せると、次々に千鶴に合わせてみせた。縞に合う飾り模様のついた帯は、普段千鶴が身に付けるものとは違い帯の下側にだけ凝った意匠の刺し子が並んでいて大層粋なものばかり。色合いも抑えめで千鶴はひとつ年配にならなければ着こなせないもののように思った。

「こちらのほうが、お客様のお顔が映えます」

 淡い花浅葱。藍の濃淡に合わせて白の帯締めを合せると、女将は黒い鼈甲を置いてみせた。

「こうやって、刺し子と同じ形の飾りを置くと一つになって面白いんです」

 千鶴は鼈甲の飾りと女将の手先に見とれてしまった。女将の指はほっそりと長く、その爪は藍色。よく見ると、掌は白く甲は薄く青みがかかっている。

「この爪も藍染めでございます。いくら洗ってもとれないものでしてね。決してお召し物には移らないものですから、どうかご容赦くださいませ」

 女将は指先を隠すように両手を組んでいる。

「とても綺麗です。藍の効能はとても身体にいいものです。こちらの藍は女将さんが染めていらっしゃるのですか」

 と千鶴が尋ねた。

「はい、主に組みひも用の糸を私が染めております。うちの人がほとんどの反物や染め抜きをやっております」

「千鶴さん、姐さんはこういった帯の意匠もやっているんですよ。図案を描かれるんです」

 お多佳が台の上に拡げてある帳面を持って見せてくれた。様々な模様が描かれた帳面は、美しく彩色されて、細かな文字で説明がつけてあった。帯や着物の文様、意匠についてのこまかな指示書が書き込まれている。お多佳が帳面をめくりながら、これがいい、あれがいいと喜んでいる。その向こうでおさよが店の主人を手伝いながら、次々に新しい反物を台に並べて選ぶのに夢中になっているようだった。

「わたしはね。この文様の抜き染めでお願いしてあるんです」

 千鶴はお多佳の指さす橘模様をみた。丸くふっくらした実と花が大小並ぶ意匠は、橘紋のようでいて大胆な雰囲気もありとても粋に見えた。

「素敵ですね」

 千鶴は感心しながら、女将が用意した藍地に白く模様の抜き染めになっている美しい反物を眺めた。お多佳はゆったりと肩や裾に拡げてあわせ、女将の持ち寄った帯を次々に拡げ、帯締めや飾りを吟味している。おさよと一緒に真剣に選ぶ二人の姿は姉妹のようにも見え、千鶴も一緒になって、あれもこれもと帯を選ぶのに夢中になった。

「姐さん、これに姐さんみたいに御腰を合せるとようございますね」

 お多佳が声を上げると、女将は待っていたかのようにすっと立ち上がった。千鶴は女将の立ち姿がまるで役者絵のようで、口を開けたままその美しい姿に見入った。女将は身体を半分こちら側に捻るように振り返り、着物の裾を少し返してみせた。藍の縞の裾からは、鮮やかな紅の襦袢が見え、よく見ると細かな縮緬に白い格子模様が入っている。千鶴はその粋な姿にうっとりとなった。藍の裾からちらりと見える赤が際立って、透けるしじらと抑えめな色の帯が映える。腰の位置が高い女将はすっきりとしてなで肩がたおやかで長い首に高く大きく結った髪が美人画から抜け出たよう。千鶴はこんなにも洒落た女性をみたことがなかった。

「姐さん、その格子の御腰をくださいな」

 お多佳がおさよと一緒に頼み、千鶴も同じものを所望した。斎藤には濃淡の縞の反物を選び数日後に自宅に届けてもらうように手配をして店を出た。乗り合いで上野までお多佳たちと移動する路すがら、お多佳は紺屋の女将が元芸妓仲間だと話をしてくれた。

「深川一の売れっ子芸妓でございました。姐さんがお座敷に上がると、花火が打ちあがるように華やいで、それはもう眩しいぐらいでした。あの頃の姿絵は今も深川どころかそこかしこに飾られていますから」

「姐さんは着道楽だと云っていますが、着物の着こなしや小物選びは誰も真似ができません。ましてやあのお姿です」

「今の御主人が阿波の国から出てきて、紺屋町で奉公していた頃に姐さんの錦絵にひとめぼれして、全財産を投げうってお座敷に上がったのがお二人の出会いでした」

「駆け落ち同然でお茶屋からでて一緒になったんでございます」

「あの姐さんが、紺屋職人の女房になったと。それはそれは大騒ぎでした」

「それでも、お二人は力を併せて京橋に店を構えるぐらいになりました。阿波藍は江戸では珍しい。そこに姐さんの感性が合ったのでございましょう。あそこまで藍縞を粋に着こなす人は東京広しといえど、どこにも居ません。わたしの着物のお師匠なんです。姐さんは」

「ほんとうに、美人画から抜け出たような方ですね」

「そうでございましょ。言い寄る相手は数多いたんでございます。その中から藍染の旦那様を選んで、姐さんも藍に染まった。人の幸せはわからないものです」

 千鶴は紺屋の女将の藍に染まった指先を想い出していた。濃い藍の爪。好いた方と一緒になって染まった色。確かに人が幸せをどこに見出すのかはひとそれぞれ。異なものなのかもしれない。でもそれが人を好きになること。好いた人の色に染まるのは深い縁があるから。千鶴はずっと斎藤との出逢いのことを考えた。濃い碧の瞳。出逢った時から瞳の色が好きだった。斎藤の身に纏う雰囲気や色合い。濃い藍、墨染め、麻の葉模様。下着や襦袢は白を好み、絹より木綿や麻の風合いが好き。髪は柔らかくて、光に当たると濃い紫にも見える。全てが好き。物静かで思慮深いところも、身のこなしも指も姿もなにもかも……。千鶴はお多佳たちと分かれて家に向かう乗り合い馬車の中で、ずっと斎藤の姿かたちを思い浮かべながらうっとりとなっていた。

 

******

 その日の夕方、斎藤が外から戻り砂埃が舞って制服の中まで汚れたからと服を脱いで風呂場に直行した。千鶴は縁側で制服を丁寧に刷毛で払い埃を落とした。まだ夏の薄地の制服に着替えるには少し早い。朝晩は冷えるこの時期に夜間巡察をするには、まだこの厚手の上着が必要だろう。風呂から上がった斎藤は、さっぱりとした様子で長男の豊誠を膝の上に載せて晩酌を始めた。子供も白湯の入った小さな湯呑みで晩酌に付き合っている。

「今日は京橋で大層良いものを見つけられました、はじめさん」
「阿波藍のしじら。はじめさんとわたしの夏着」
「ひとめぼれです」

 千鶴は膳の上に次々と小鉢を並べていく。御櫃から茶碗に飯をよそって斎藤に差し出した。斎藤は子供と一緒に軽く手を併せてから、食事を始めた。千鶴はずっと着物の話を続けている。

「わたしも藍縞にしました。生まれて初めて纏う色。とっても鮮やかです」
「帯も女将さんが見立ててくださって、薄花浅葱。少し淡くくすんでいて粋なんです」
「今まであんな帯を締めようなんて思ったこともなかったものだから」
「ここにね、こんな風に四角い文様が刺してあるの。最初見た時は驚いたんです」
「はじめさん、きいてます?」

 斎藤は無言のまま頷くだけで、黙々と飯を食べている。子供は小さな箸を上手につかって食べている。時折、千鶴が口の周りを拭ってやった。食事の途中で次男の剛志が起きて泣き出し千鶴は膳の傍で乳をやり始めた。

「少し奇抜すぎるんじゃないかって思ったの。でもとても今様で素敵なの」
「濃淡の違いで、はじめさんは濃藍の縞はすこーし幅のあるもの、粋なんです。とっても」
「帯も飾り刺しの入っている薄鼠。わたしのと対になってて粋なの」

 千鶴の話は止まらない。「すい」や「いき」と云った言葉はお多佳の影響で、最近よく口にするようになった。斎藤は千鶴が両国の川開きを楽しみにしていることを思い出した。今年は土方が屋形船を借りてお得意先をもてなす予定で斎藤たちも招待されている。千鶴は一張羅を用意して洒落込むつもりでいるのだろう。

「明後日、反物が届くから早速水通しして仕立てます」
「晴れるかしら。ここのところお天気が急に悪くなったりするから」

 子供の顔を肩に預けるように抱いて背中をとんとんとしながら、千鶴は縁側の外を覗きこんだ。今晩は月も明るく、晴れ渡った夜空に星も見えている。斎藤はもう雨は降らぬだろうと思い、検疫が明けて早く神夷を連れて巡察を再開することを待ち望んだ。食事を終えた後も、千鶴は夏着を仕上げる段取りをぶつぶつと独り言をいうように続けていた。斎藤は早くに休み、翌朝から一日泊まりの巡察に出掛けて行った。

 

*****

 数日後、検疫から神夷が小石川診療所に戻ってきた。五月も終わりに近く、強い陽の射す日中は汗ばむぐらいの陽気が続いている。千鶴は腰の据わってきた次男を背中におぶり、くるくると家事をこなすようになった。そして子供が午睡する間に夏着の仕立てに勤しんだ。

 斎藤が夜の巡察後家に戻り風呂場で汗を流した。千鶴はその間に子供たちを寝かしつけ、風呂上りの斎藤に夏着の寸法合わせをした。思った通り抱き巾を以前より半寸は長くとらなければならない。この一年で斎藤の胸周りは逞しい筋肉がついて大きくなった。過酷な戦役で、日々大量の荷物を抱えての転戦。東京に帰還してからも陸軍との合同訓練は続いている。元々細身な身体はしっかりとした骨組みに刀を振るう為に培った筋肉に覆われている。腕周りと太腿周りも最近は少し大きくなった気がする。それでも全体的に着痩せしてみえ、ほっそりとした姿は昔と変わらない。胸周りの幅を大きくとる新しい着物は斎藤を立派に見せることになるだろう。千鶴は仕上がりが楽しみだった。だが届いた帯と一緒に合わせて見せた時に、斎藤は開口ひと言。

「随分と派手だな」と呟いた。

 確かに、普段抑えめな藍や小紋を纏う斎藤にしては鮮やかな縞地に帯も刺繍が入って華やかな雰囲気のものに見える。

「とてもお似合いです」
「俺は、このような模様の入った帯は締めたことがない」
 斎藤は不本意な様子で帯を見ている。
「遊び人のようだ」
「まあ、そんなことありません。確かに派手かもしれませんけど、品があって色も抑えめですし。はじめさんに似合っています」
 千鶴は斎藤の前にしゃがんだまま少し不服そうな表情の夫の顔を見上げて反論した。そして、突然くすくすと笑い出した。

「前にもこんなことがありました。伏見で。はじめさんと人探しをした日。覚えていらっしゃいます?」
「確か、野村君が用意してくれた色浴衣でした。行楽で伏見に来ているお客を装って」
「あの時もはじめさん、濃茶の縞の着流しに模様帯を締めて。いつもと違った雰囲気で似合っていました」
「石田薬衛門か」
 斎藤の呟きに、千鶴が吹き出しけらけらと笑いだした。持っていた帯を畳に落としお腹を抱えている。

「そうです。あー、懐かしい」
「舟の船頭さんに、石田薬衛門さまですかって訊かれて」
「そうだ、俺が石田薬衛門だって」

 千鶴は斎藤の声音を真似て、また堪えきれない様子で笑い転げている。

「あの時、原田さんが笑いを堪えていらっしゃるのに、私、我慢できなくって。余りにもはじめさんが真面目な顔で応えているものだから」
「あれは全て野村の段取りだ。合わすしかなかった」
 斎藤は少し狼狽したように頬を赤らめている。
「屋形船で舟遊びなど、行楽にしては行き過ぎであった」
 斎藤はもう十年以上も前のことをさも残念そうに話す。千鶴はそれが一段と可笑しくて、笑いが止まらない。

 京に暮らした頃、幕府の命で隠密で人探しをすることになった。土佐藩浪人の坂本龍馬。千鶴は坂本と面識があり人追いに一躍買う事になった。伏見の船宿を拠点に行楽客を装い試衛館派の幹部全員が色浴衣に着替えた。千鶴が女の恰好で斎藤と出掛けた夕べ。坂本とは偶然船着き場で顔を合わすことになった。ひと悶着起きそうな状況で、江戸の勝安房守からの指示を伝言し、事を察した坂本は早々に伏見を発ち、京を離れた。

「たいした働きはできなかった」
「あのような派手な出で立ちは、逆に目立つような気がしていた」

 斎藤にとっては成果をあげられなかった出来事のようで、千鶴は少し意外に思った。一緒に歩いた伏見界隈。屋形船に二人きりで乗る事になった時、とても嬉しかったのと同時に気恥ずかしかったことを良く覚えている。船べりの腰かけに背中を向けて座っている斎藤が遠くに感じて内心寂しいと思ったことも。

「はじめさん、覚えていらっしゃいますか」 
「舟が揺れたときに、わたし一瞬はじめさんの背中に凭れ掛かってしまって。離れようとしても舟の縁に掴まれなくって」

 ——そのままで……よい。

「あのとき、はじめさんの声が聞こえて。恥ずかしくて、聞こえないふりをしました」

 千鶴は遠くを見詰めるような表情で、縁側の外に顔を向けている。斎藤は千鶴の横顔を見下ろしながら伏見での夕べを思い出した。

「舟がまた揺れて……凭れ掛かったまま。はじめさんははいろいろな話をしてくださった」
「わたし、よく覚えています」

 あの日、月明かりだけが照らす中、舟はゆっくりと進み川面に映る提灯の灯りが線を描くように黄金色に拡がった。河岸の賑やかさとは対照的な静かなひととき。夕涼みの風で千鶴の髪に挿した簪が揺れていた。仄かに香る甘い匂いに面映ゆさを紛らわそうと続けて飲んだ酒がまわり、口からとつとつと言葉が出た。

「はじめさんに着物が似合うと言って貰えたのが嬉しくて。ずっとこのまま船着き場に着かないで欲しいって願っていました」
「ずっと、このまま舟に揺られていられたらって、そんな事ばかり考えていました」

 まるで告白するかのように話す千鶴の横顔は月明かりに照らされて美しく、斎藤はその手を引いて千鶴を立ちあがらせると包み込むように抱きしめた。

「俺もそう思っていた」

 頭上から聞こえる優しい声。千鶴はそのまま抱き上げられ、漆喰の廊下に連れていかれた。

 

*****

「あの日浴衣を返した時、平助くんと原田さんが簪を買い取ってくださったんです」
「わたし、とても大切にしていたのに。戦火で失くしてしまって。綺麗なつまみ細工でした」

 一義を終えた後、斎藤の胸の上に頬を置いた千鶴が呟いた。快楽の余韻の中、千鶴は遠い伏見での記憶を辿っているようだった。伏見での任務。あの騒動の後、着物を返したときに左之助たちが千鶴に簪を買い与えていたことを斎藤は知らなかった。色浴衣に合わせた淡い花の細工。月明かりに浮かぶ千鶴の横顔。可愛く美しいその姿に鳩尾が持ち上がるような感触がして、ただ面映ゆかった。懐かしい日々。夜のしじまに、千鶴の肌がひんやりと冷え始めた。斎藤は愛おしいものをそっと抱き上げると奥の間の布団にはいり、再び二人で睦み合った。

 数日後、巡察から戻った斎藤の制服の内物入に紙に包まれた簪が入っていた。風呂から上がった斎藤に浴衣を着せかけ、千鶴は帯を背中から斎藤の腰にまわした。

「制服に入ってあっただろ」
「はい」
「同じものかはわからん。よい細工だったから買ってきた」
「はい」

 千鶴は斎藤の帯を締めるのを手伝いながら、笑顔を止めることができない。いそいそと奥の間に走っていく千鶴を見て、斎藤は微笑みながら居間のいつもの場所に腰かけた。千鶴は大切そうに紙の包みを持って斎藤の前に座ると、簪を灯りにかざすようにしてつぶさに眺めた。

「綺麗。とっても綺麗。花簪なんて何年ぶりでしょう」
「ありがとうございます。大切にします」
「挿してやろう」
「はい」

 千鶴は斎藤の膝に手を置いて首を横に向けた。結い髪から甘い鬢油の薫りがする。ちょうど千鶴が縫い終えた新しいしじらの色と同じ藍と白の小ぶりな花が黒髪に映える。斎藤が口づけようと首筋に迫ると、千鶴はそれに気づかぬまま鏡の前にいざって離れてしまった。

「若やいでみえないかしら」
「結い方を変えようかしら」
「あら、わたし。こんなところに黒子がある」
「やっぱり変かしら」
 手鏡をもう一つ持って、うなじや髪の様子をみては、ぶつぶつと独り言ちている。そんな千鶴を斎藤は微笑みながら眺めていた。

「よく似合っておる」
「伏見の姿より、いまがいい」

 背後から聞こえたひと言を千鶴は聞き逃さなかった。

(ほんとうに。はじめさんったら)

 手鏡を畳に置いた千鶴は振り返りざまに飛びかかるように斎藤に抱きついた。斎藤は胡坐をかいた膝の中に千鶴をすっぽり包むように抱きかかえた。おもむろに首に腕を回した千鶴は愛しい人の頬に口づけた。微笑みながら何度も。

「はじめさんも伏見のときより、今がもっといいです」
「私の大切な旦那さま」

 斎藤は満足そうな顔で微笑み、ずっと何度も口づけられながら遠い日々を思った。伏見での任務。月明かりに浮かぶ千鶴の横顔。盗み見るように眺めては面映ゆい想いがした。揺れる簪。おくれ毛が風になびく首筋。今も変わらぬ。綺麗でもっとよい。もっとよいのだ。

 

****

明治十一年盛夏 

両国の川開き

 うだるように暑い夕暮れ時、斎藤一家は馬車で両国に向かった。夫婦で揃いの藍縞を纏い、千鶴は塗りの高下駄。裾から覗く細かな格子の赤い襦袢が鮮やかな藍を引き立てる。高く結った黒髪に白と藍の摘まみ簪が揺れて、子の手を引いて歩く姿はそのまま錦絵になりそう。船着き場で天野一家と合流し、大きな屋形船に乗り込んだ。沢山の船出。

 天野夫婦が斎藤の長男を連れて船べりに腰かけ、挨拶に来たお多佳が次男の剛志を抱き上げて土方の元に移動していった。土方は船首べりで高々と子供を抱き上げて、間もなく上がり出した花火を見せている。

「こいつは、大きな音にも驚かねえ」
「大したもんだ。度胸の据わったところがある」

 どーんという音がして、皆が明るくなった空を見上げた。大きな菊が開くように美しい光が空を彩る。千鶴は斎藤に手を引かれ、土方の元にゆっくりと移動した。子供は不思議そうに空を見上げている。大きな真っ黒な瞳に映る光。舟が揺れて、斎藤は千鶴を抱き寄せるように背中に手を回した。

 どーん。大きな音とともに、人々が「たまやー」「かぎやー」と掛け声をかけあう。昨年は、西南の戦に出た斎藤の無事をひたすらに願う夏だった。

(こうして、再びはじめさんと平和に夏が迎えられたことが夢のよう)

 隣に見上げた夫の横顔は千鶴と同じぐらい感慨深げに夜空を見上げている。千鶴は斎藤の胸に頬を寄せるように頭をもたげた。ふと額に夫の唇が触れた気がした。見上げると、そのまま唇と唇が触れあった。一瞬の出来事。千鶴はそのまま左袖を夫の腰に回し胴に抱き着いた。どーんと大きな音がして、一際大きな花火が上がった。どよめく人々の声。船首から土方が大きな声で子をあやす笑い声が聞こえる。お多佳と土方が花火の明るさに影のように浮かび上がるのを見て、斎藤夫婦は目を見合わせて微笑んだ。駆け寄ってきた長男を二人で抱き上げると再び上がった大きな花火を見上げ大いに楽しんだ。

 

 

(2023/04/11)

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