第十二部 幕末股間若衆

第十二部 幕末股間若衆

下の帯の  道はかたがた  別るとも 

行きめぐりても  あはむとぞ思ふ

古今和歌集 巻第八 離別歌  紀友則

慶応二年夏

 西本願寺に屯所を移して二度目の夏を迎えた頃のこと。

 北集会所の周り廊下の拭き掃除を終えた相馬主計と野村利三郎は、汚れた桶の水を北側の廊下から外に撒くように勢いよく流した。これは、二人を指導する雪村千鶴からは、「やってはいけない事です」と教えられていた。だが暑い境内を横切って門の傍の植木に水遣りに行くのを面倒に思った二人は、手っ取り早く桶の水の始末をして、濡れた手拭を干しに裏側の廊下に向かって走って行った。

 角を曲がった瞬間、刀の鞘が柱の陰から飛び出てきた。鞘の先は、もう少しで相馬の胸元を突きそうだった。慌てた相馬は、横に飛び退いた。刀を突きつけてきたのは藤堂平助。後を走っていた野村は、相馬が背後に出して踏ん張った左足に躓いて転んだところを、右腕で受けるように床に転がって勢いよく仰向けに倒れた。体術で習った受け身の技。決まった。頭を床にぶつける事もなく、肩で身を受けて平たく転がる。その次は足を振り上げて素早く立ち上がり構える。

 野村は体術のお浚いをするかのように両足を振り上げた。その瞬間足首を平助に思い切り掴まれた。

「藤堂さん」

 満面の笑顔の平助が見えた。平助は野村の両足を持ったまま廊下を引きずって行く。

「相馬、お前、そっちを持て。このままこいつを裏階段から放り投げてやろう」

 相馬は、頷くと野村の両腕を持って押すように廊下を進んでいった。野村は「やめろ、止めてください」と懇願しているが、平助は、裏階段の下に大きな盥があるから水浴びだと笑っている。そうだ、あれはこれから敷布に糊をする為に溜めてある水だ。あの水で遊んだら、雪村先輩は怒る。やめてくれ。野村は叫んだ。

 角を曲がったところで、突然平助が手を離して笑い出した。

「お前、はみ出してるぞ」

 平助は、尻もちをつくように笑い転げている。野村は仰向きに両腕を相馬に持たれたまま、袴の裾が股の上まで捲り上がっていた。相馬にも見てみろと平助が野村の両足を持って広げた。相馬は野村の股間を覗き込むと、後ろに尻もちをついて大笑いした。

「こいつ、褌がいつも緩いんです」
「つうか、子供みてえにちっちぇえの」

 野村は自分の股間のものを慌てて仕舞ったが、すかさず平助は野村の両足を持ってまた引き摺り始めた。

「おい、よこ金利三郎。もっと大きい褌を締めろよ」
「藤堂さん。こいつ、六尺でも丁寧に二つ折りにするんです」
「だから、玉がはみ出んだよ」

 平助はげらげらと笑っている。野村はそのまま盥の水の中に背中から放り込まれた。

「行水ついでに、褌を締め直せ」

 平助はふんぞり返るようにして腰に手をやって野村を見下ろしている。野村は仕方なく、濡れた袴も着物も脱いで、庭で褌を締め直し始めた。

「もう子供じゃねえんだから、前は広げて、こうやってな。お稲荷さんを綺麗に収めるだろ。いいか、こうやって尻に向かってキリっと絞め揚げるんだ」

 こうだろ、こう。平助は自分も尻まくりして、手本を見せた。確かに、平助の褌はキリリと結んであって、収まりが良さそうだった。

「いいか、刀を振るう時も、丹田と股に力を入れて、こうだ」
「ゆるい褌で、金玉ぶらぶらさせてると、力が入んねえぞ」

 野村も相馬も「はい」と声を揃えて大きく頷いた。

 夏の始め、相馬と野村は、新選組に入隊してからずっと小姓役の指導をしてくれている雪村千鶴が、実は女であると知った。新選組幹部だけが知る秘密。雪村千鶴は事情があって、屯所では男装束で暮らさなければならず。その出自については、平隊士の間で様々な憶測と噂話が広まっていた。

 土方副長の小姓は、実は近藤局長の隠し子
 江戸から近藤を頼って上洛してきた。


 別の噂では、小姓の雪村は松平中将様の御落胤
 元会津藩邸の茶坊主
 見目麗しい念比の若衆というのもあった。

 雪村千鶴が女であることを知って、幹部が千鶴を大切に守っていることがよく解かった。そして、相馬と野村は局長同様に千鶴を屯所内外で護ることを幹部に誓った。以来、幹部の面々は二人に剣術や体術の稽古を特別に付けてくれるようになった。平助の廊下での不意打ちも、そういった稽古の一環。こうして相馬と野村は雑事の合間に熱心に稽古に励んでいた。

 季節は梅雨を過ぎ、暑さが一段と厳しくなった。

「何してんだ、そんなところで」

 午前中の巡察から戻った平助が、廊下の上り口から自分の部屋に戻ろうとすると、少し先の廊下にしゃがみ込む相馬と野村の背中が見えた。振り返った二人は、平助の顔を見ると、口元に指を持っていって「静かに、静かにしてください」と囁いた。

 相馬と野村は四つん這いになって、廊下の先の部屋の中の様子を伺っているようだった。そこは、普段は客間として使っている四畳半の部屋だった。障子が開け放たれて、廊下には桶に水がはったものに清潔な手拭がかけてある。これは、この客間に病人がいる時に用意するもの。誰か寝込んでいるのか。そう平助は思った。

 二人とも何をこそこそしてんだ。中を覗いてはいけないのか。

 そう思いながら、平助は、自分の気配を消して二人と一緒にしゃがみ込んだ。

「なにか、欲しいもの。召し上がりたいものがあれば、仰ってくださいね」
「また、冷やした手拭を持って参ります」

「痛みますか? もう少し、冷やしましょうか」

 優しく語りかける千鶴の声が聞こえた。平助は相馬と野村の背中に乗っかるようになって、首を伸ばして部屋の中をそっと覗き込んだ。千鶴の背中が見えて、布団の上に横たわる隊士の顔が見えた。肌着を開いて、両足を広げたまま息苦しそうな声をたてている。隊士の腹のあたりを手当しているのか、様子は良く見えなかった。

 息を凝らして平助は首を伸ばせるだけ伸ばした。平助の下の野村も、必死に中を覗き込む余り、汗で床についていた掌が前に滑って、前につんのめった。上に乗っていた平助は、崩れるように頭から落ちると、思い切り床に額をぶつけて「いてえ」と声を上げた。

 振り返った千鶴は、「平助くん」と呼び掛けた。

「野村君たちも。なにかあったの?」
「いいえ、俺等は用事が終わったところで……」
「オレは、巡察から戻ったとこ」

「お疲れ様です」
「外は、暑かったでしょう」

 千鶴は、そう言いながら背後の隊士の腹の上に薄い布を被せて、手に持っていた手拭で優しく隊士の額の汗を拭っていた。

「誰? 熱で寝込んでるのか?」

 平助は、平静を装って部屋の中に入って来た。平隊士の顔は見たことがあった。確か、六番組の藤本。大人しい男で平助より一つか二つ若かった。剣の腕は並、確か上総の生まれで去年入隊したんだっけ。

「はい、さっきお薬を飲んで貰ったから」
「わたし、これから醒ヶ井まで水を汲みに」

「相馬君、野村君、もしお手すきなら、私が戻るまで、藤本さんを看ていてもらえる?」
「はい。でも、醒ヶ井まで行かれるなら、俺がついて行きます」

 相馬は立ち上がって、打刀を持つと腰に差した。千鶴も立ち上がって仕度を始めた。千鶴は、野村に、時々藤本の額の上の手拭と、股の上の手拭を水で冷やして取り替えるように頼むと、急いで屯所を後にした。

 

*****

 

 客間に取り残された野村と平助は、布団に横たわる藤本をずっと眺めていた。息苦しそうにしているが、意識はだんだんと無くなっていっているようで、額の上の手拭を取り替えるついでに、肩を揺らしてみると、藤本は既に眠り始めているようだった。

 廊下で手拭を水に浸けて搾った野村は、藤本の腹の上に掛けてある布をはぐった。部屋の奥の柱に凭れ掛かって胡坐をかいて、鼻の孔をほじくっていた平助は、野村がそっとはぐった手拭の下のものを見て、唖然とした。野村も、口をぽかんと開けたまま驚愕の表情をしている。

 藤本の褌は緩められていた。股間の一物は。晒しで隠れようがないぐらい巨大なものだった。おおよそ人の陰嚢とは思えない。それは、人の皮を被せた鏡餅のようで。それも腫れあがっって肥大し、その上に申し訳なさそうに陰茎が乗っかっている。足を広げて横たわる藤本の股間に拡がる異様な大きさの代物を見た平助と野村は目を合わせた。

「すげえ」

 平助は立膝をしたまま、喉からやっと掠れたような声をたてた。野村は目を見張ったままこっくりと頷いた。

「金玉袋がこんなになるのかよ」

 恐る恐る指の先で、皮膚の上を突いた平助は、その表面の熱さに驚いた。藤本は魘されるような声を上げて苦しみ始めた。平助は、野村から濡れた手拭を奪うようにとると、藤本の股間を煽ぐように風を送ってから、上に手拭を載せた。

「こんな腫れあがっちまって、どうしたんだ」

 二人で苦しそうな藤本に同情しながらも、目の前の肥大した一物を熱心に観察している内に、千鶴が戻って来た。千鶴は、平助と野村に礼を言うと、お勝手に冷たい水菓子を井上さんが用意しているからと言って、平助と野村を部屋から出るように促した。

 お勝手では、相馬が井上と一緒に西瓜を食べていた。野村と平助も呼ばれた。よく冷えた水菓子で喉が潤う。

「藤本くんは、この前の嵐の夜から具合が悪くてね」
「それでも無理して私と巡察に出ていたから」
「まさか、あんなになってしまうなんてね」

 井上も藤本の股間の惨事を知っているようだった。

「そんなにお悪いんですか。雪村先輩は、お医者様からお薬を貰ったから暫く様子をみると言ってましたけど」
「大坂か江戸の蘭方医に診せたほうがいいんじゃないかってねえ」
「山崎くんが居れば、大坂に連れていくのも叶うんだが」

「わたしの陰金と同じで、うつるんじゃないかい。あれは……」

 井上が酷く心配そうな顔で溜息をついて黙ってしまった。平助と野村は絶句している。

(陰金って。源さんインキン持ちかよ)

 平助は思い切り心中で声を上げた。

(つか、伝染るのか、あれ)

「うつるって。源さん。あそこに触ったら、オレの金玉も腫れ上がんのかな?」
「藤本さんは、腹を壊しているんじゃないんですか。なんです。金玉が腫れるって」
「オレ等、見たんだよ。寝てる藤本のあそこ。金玉袋が、鏡餅みたいにでかくなって」

「なのに、ちんぽこはこんなにしょぼくれてて」

 平助は得意になって、指で長さを教えてげらげらと笑い出した。其れにつられたように、野村もへらへらと笑い始めた。相馬は驚愕の表情をしている。雪村先輩は、腫れあがった金玉の看病をしているのか……。

「雪村くんが、松本良順先生に文を書いていたから、明日にでも先生は来て下さるだろう」
「私は陰金持ちだから、大浴場の風呂には浸かったことがなくてね」
「でも、あの病がうつるのなら、君たちも湯船の中には入らないのがいいだろう」

 井上は、それから自分の陰金はなかなか治らないと愚痴を言い始め。平助も野村も相馬も、井上を気の毒に思いながらも心中では「インキン持ちには死んでもなりたくない」と思っていた。

 そして、藤本の「金玉袋病」は絶対に貰ってはならないと思った。

 

 

*****

恥を知りなさい

 翌日、朝から黒谷に出掛ける土方を見送った千鶴は、客間の藤本の看病につきっきりになっていた。土方は、黒谷での用が終わった後に、二条城に立ち寄って松本良順を屯所に連れて来ると千鶴に約束していた。きっと暑い中を、籠に乗って戻られるだろう。そう思った千鶴は、なにかさっぱりと食せるものを土方と松本に用意しようと、準備を始めていた。

 屯所の掃除、幹部の洗濯物を一通り終えた相馬と野村は、千鶴がお勝手で昼餉の準備を井上と始めたのを確かめると、示し合わせたかのように二人で客間に向かった。藤本の様子を見るためだった。相馬は初めて藤本の実物を見分する。それが目的だった。

 そっと廊下の角を曲がった二人は、そこに平助がしゃがみ込む姿を見た。さーっと音を立てずに忍びよった二人は、平助の背中を指でつついた。三人で指を口元で立てて、「静かに」と合図を送りあうと、抜き足差し足で部屋に入って行った。

 藤本は意識が朦朧としているようだった。目は半分開いているが、瞳は虚ろな様子で、目の前に掌をかざしても気づいた様子がない。平助達は静かに頷きあった。腹の上に掛けてある薄い布をそっと上にあげて中を覗き込んだ。三人とも、布の下のものを見て顎が畳につくぐらい大きく口が開いたまま言葉が出て来ない。

 藤本の陰嚢は昨日の三倍の大きさになっていた。

 それは、もう身体の一部ではなく、そこにもう一人の藤本が蹲るが如く。相馬は生れて初めて見たものに、驚きのあまり腰を抜かしてしまいそうだった。

「これ、立ち上がると床につくんじゃね?」

 囁くような声で平助が言うと、二人は大きく頷いた。

 ——これで、厠にしゃがんでみろよ。重みで落っこちまう。

 平助がそう言うと、二人は藤本が陰嚢に引っ張られて厠の奈落に落ちていく姿を想像して肩が震えだした。いかん。可笑し過ぎる。笑ってはいかんが、笑ってしまう。

 相馬は自分の膝を思い切り握り潰すようにして笑いを堪えようとしたが、声が漏れてしまった。野村は、腹を押えて真っ赤な顔をして笑いを堪えて震えている。平助が、「己の玉袋で沈んじまう」と言ってげらげらと笑い出した。もう駄目だ。つぐんだ口からぷーーーっと吹き出し、相馬も笑いだした。野村も声をあげて笑い出した。三人共、畳で悶えるように笑っては、布をはぐって一物の大きさに驚き、また笑いを繰り返した。

「あなたたち!!」

 大きな叫び声が響いた。廊下から勢いよく部屋に入ってきた千鶴が、「出て行って」と平助の肩を持って、廊下に押し出した。野村と相馬も引きずられるように廊下に放り出された。

「病人の傍で騒ぐなんて。何を考えているんです」

 千鶴は物凄い剣幕で上から見下ろすように三人を睨んだ。

「だって、玉袋があんなになってんだぜ。昨日よりあんなにでかくなって」
「あれじゃ、歩けねえってなあ」

 平助は相馬と野村に同意を求めるように「なあ」と繰り返している。

「藤本さんは、発熱されて苦しんでいらっしゃいます。午後に松本先生に診てもらうまで、身体を冷やさなければならないの」
「だから、あんなになって、厠にも行けねえなって。なあ」
「玉袋ごと落っこちるって」

 平助は目尻の涙を指で拭いながら、げらげらと再び笑い始めた。それに合わせるかのように相馬と野村も笑っている。

「何が可笑しいの」

 千鶴は、眉間に皺を寄せている。それでもゲラゲラと平助たちは廊下に座ったまま笑っていた。

「あんなに苦しそうにしている藤本さんを笑うなんて」
「三人とも、恥を知りなさい!!」

 千鶴は両足を踏ん張るように立つと、どこから持ってきたのか箒で、三人を折檻するように叩き始めた。平助は、うまく身を躱しながら廊下を転げるように後退り、相馬と野村は、手で身を庇いながら「先輩、止めてください」と懇願した。

「二度と、近寄らないで」

 千鶴の両目から涙が零れていた。泣き叫ぶ千鶴の剣幕に驚き、平助達は一目散に逃げていった。千鶴は暫くその場で、両手で顔を覆って泣き続けた。

 

*****

 

 折檻から逃げた三人は、井戸端で頭から水をかぶって汗を流した。日陰に腰かけて、千鶴の剣幕は凄かったと、悪びれる様子もなく藤本の股間の話で再び盛り上がった。

「お疲れ様です」

 相馬が巡察から戻った三番組の隊士たちに挨拶した。皆、隊士たちは上気した顔で門から井戸に直行したらしく、刀をとって隊服と着物を勢いよく脱いで裸になり、井戸水を頭から被って汗を流し始めた。暫くすると、斎藤が現れて、同じように着物を脱いで行った。

 斎藤は、平隊士の宮川と腰に巻いた綿紐を解くと、腰に下げていたものを地面に下ろした。どさっと大きな音を立てて地面に落ちたのは大きな麻袋。

「あーー、重かった」
「ご苦労であった」
「組長、見てください。これ」

 平隊士の宮川は腰に食い込んだ紐の後を見せている。真っ赤に腫れあがった腰回りは痛々しく、斎藤は、「すまぬな。手当をしてやろう、あとで部屋に来ると良い」と声をかけている。斎藤の腰回りも同じように皮膚が真っ赤になっていた。

「今日は、もう休むように。当番は、俺が別の者に頼んでおく」

 斎藤は、着物を持って部屋に戻っていく隊士にそう伝えると、手早く汗を流して、麻袋を階段の影にしまうように置いた。

「お疲れ、はじめ君」
「麻袋さげて巡察行って来たの? 何が入ってんの?」
「砂だ」
「砂って、なんの?」
「ただの砂だ」

「この暑いのに、そんなもの腰に下げて巡察しないといけないのかよ。三番組は大変だな」
「これきりだ。重いものを下げて歩くのは難儀なものだ」

 斎藤は、日陰で再び汗を手拭で拭き直し、着物を羽織ると素早く帯を絞めた。そして、砂袋の傍に置いてあった晒しをはたくように砂を落として丁寧に広げた。

「なにそれ」

 平助は、斎藤の手に持っている奇妙な腰巻を見て訊ねた。

「これか、砂袋を入れて歩いた帯だ」

 斎藤は、袋になっている晒しの先と腰に回すようになっている部分と紐を見せている。それは、褌の変形のような形で、確かに砂袋を納められるように先が袋になっていた。

「相馬、雪村は、台所に居ないようだが、外出しているのか」
「雪村先輩は、北側の客間にいらっしゃいます」

 相馬と野村が声を揃えて答えた。斎藤は、「そうか」と言って、刀と隊服と畳んだ袋帯を持つと階段を急ぎ足で駆け上がり、北側に回る廊下に向かって歩いていった。平助と相馬たちは目を合わせて頷くと、斎藤の後を追いかけて行った。

「藤堂さん、行ってはいけないんじゃないですか」
「オレの部屋は客間の近くだからいいんだよ」

 平助は廊下を走っていく。相馬と野村は、平助に手招きされるままについて行った。斎藤が客間の前の廊下から中に声を掛けるのが見えた。直後に障子がゆっくりと開かれて、斎藤が部屋の中に消えていった。障子は開け放たれたまま。平助は、相馬たちに振り返ると、「しーっ」と指を口元にあてて静かに移動しろと言って、三人でゆっくりとしゃがみながら、廊下から客間の様子を伺った。

「……昼過ぎに戻っておったが、井戸で汗を流しておって手間取った。すまぬ」

 斎藤が謝る声が聞こえた。

「これは、しっかりと砂袋を支えておったが、歩くのに多少難儀した」
「宮川は、根をあげておった」
「ほんとうにお辛い思いをさせてしまって、申し訳ありません」

 千鶴がずっと謝る声がした。斎藤は隊士が腰に紐が食い込んで血を流していたから、膏薬を貰えないかと訊ねている。千鶴は、「すぐに用意いたします」と返事をした。平助と相馬たちは転がるようにして廊下を四つん這いで走って、間一髪で自分の部屋の中へ逃げこみ、千鶴から身を隠した。

 廊下から斎藤と千鶴の声がした。平助たちは、自室の障子の影にしゃがんだまま息を凝らし、二人のやり取りに耳を傾けていた。

「斎藤さん、そちらを。わたし、お洗濯します」
「いや、よい。自分で洗う」
「いいえ、貸してください」
「よい、あんたにはいつも着物や寝間着を頼んでおる」
「ですから、一緒に洗いますので」

「どうしてですか。斎藤さん」
「なにがだ」
「下帯を洗濯に出さないのは、斎藤さんだけです。幹部の皆さんは、原田さんも永倉さんも、皆さんお出しになっています」
「己の下帯ぐらい、自分で洗う」

 斎藤の声は動揺している響きがあった。平助は、障子に指を舐めて穴を開けて、廊下を覗き込んだ。相馬と野村も同じように障子紙に穴を開けて、二人の姿を確かめた。

 斎藤と千鶴は、腰帯の両方を持って引っ張り合いをしていた。千鶴は腰を低く構えて両足を踏ん張っている。

「どうしてですか。下帯の一枚、二枚増えたところで、何の苦労もありません」
「斎藤さんが真っ白な下着をお好みなのは、解かっていますから」
「これも、屯所一に真っ白にしてみせます」
「お洗濯は得意なんです。わたし」
「いいと言っておるのだ」

 斎藤も引き下がらなかった。斎藤は何故か頬が紅くなっていた。

「そうだわたし。肝心なこと」

 突然千鶴は、引っ張っていた手を急に緩めた。

「この袋になっているところ、股に擦れました?」

 多少素っ頓狂な様子で突然質問をした千鶴に、斎藤は唖然としていた。目を見開いたまま千鶴の顔を見ていた斎藤は、再び頬が紅くなり、耳まで真っ赤になった。

「ああ。擦れておった……多少……」

 千鶴は袋の部分をじっと手に持って見つめながら考えこんでいる。

「汗をちゃんと吸っていましたでしょうか? 太腿や股に直接、砂袋が触れなければいいのですが……」
「ああ、砂袋はこの中に納まっておった」
「そうですか、それなら袋に縫った甲斐があります」

 千鶴は笑顔になった。そしてペコリと頭を下げて斎藤に礼を言うと、素早く腰ひもを畳んで丸めるように手に持って、「膏薬ですね。山崎さんのお部屋で用意して、直ぐにお部屋にお持ちします」と廊下を歩いて行った。その後を、斎藤は追いかけようとしたが、ふと、平助の部屋の前で止まると、勢いよく障子を開けて、そこにしゃがみ込む平助達三人に刀の鞘を向けた。

「なにゆえ、そのようにこそこそと隠れておる?」

 斎藤は、平助たちが聞耳をたてていた事を咎めた。平助は、質問には答えずに、斎藤に袋の腰巻と砂袋の事を問い詰めた。

「いったい、はじめ君は何してんだよ。砂袋を股にぶら下げてって。客間の藤本じゃあるまいし」
「その藤本だ。雪村は藤本の為に下帯を縫っておる」

 やっぱりそうか。そう平助は思った。それにしても、あの巨大なものをいくら袋に入れて、腰に結び付けても、到底歩けるもんじゃない。

「藤本は、熱が下がったら、巡察に出たいと言っておるそうだ」
「六尺褌では不自由するだろうと、雪村が苦心して下帯を作っている」
「じゃあ、さっきのが藤本の褌なのか」

 斎藤は頷いた。そして、平助の部屋にいる相馬と野村に何をしているのかと訊ねた。二人は、ぽつぽつと午前中に藤本の部屋を覗き込んでいた事、藤本の部屋で笑いこけているところを千鶴に酷く叱られた事を白状した。

「すみません、立ち聞きしてしまって」
「雪村が憤るのも無理はない」
「平助、あんたもだ」

「わかってるよ」

 平助は口を尖らせて、不貞腐れた表情を見せた。斎藤は溜息をつくと、隊士の怪我を手当する必要があるからと廊下を自室に戻って行った。平助の部屋に残された三人は、斎藤にも咎められて、しゅんと小さくなったままだった。

 

 

*****

 

 その日の夕方に、土方は松本良順を連れて屯所に戻った。

 客間の病人を診察した松本は、容態は悪く直ぐにでも陰嚢を切開する必要があると云った。洛中はもとより大坂でも執刀医はおらず、松本の強い勧めで藤本は江戸の幕府医学所へ搬送されることが決まった。

「通仙散を用いた大掛かりなものになる」
「江戸の医学所に今、合水堂の安崎先生もいる。私から執刀を頼むつもりだ」

 千鶴は、大坂の蘭方医学所の合水堂のことは山崎烝からも話を良く聞いていた。身体にできた岩を取り除く事が出来る医者がいると。千鶴は、藤本の腫れた陰嚢にも岩が出来ているのかもしれないと、その病状の深刻なことに胸が痛んだ。

 松本は、翌朝藤本を連れて大坂に行き、そこから船で江戸に戻る手配をすると言って二条城に戻って行った。千鶴は、患者搬送の準備を云いつけられ、平隊士の部屋に行って藤本の身の回りの物を片付け、江戸に行く準備をした。翌朝、淀まで荷車に載せた藤本を送って行き、屯所に戻ったのは、昼に近い頃だった。土方に呼び出された千鶴は、藤本の病について、隊士たちに話をして貰えないかと頼まれた。

「良順先生から、また厳しい注文があってな」

 そう話す土方は、溜息をつくと文机から一枚の書付を手に取って、千鶴の前に置いた。

一 隊士の衛生
二 湯船の使用を禁ず
三 薬湯
四 風呂桶で股を洗う
五 褌

「先生が言うには、藤本の病は風呂を介して他の隊士にうつるかもしれなくてな」
「この暑い時期に酷だが、風呂の湯船に入るのをやめねえとならねえ」
「浴場で、かけ湯だけでも、汗を流すことができればよろしいかと」

「問題はこの薬湯だ。先生は、股を薬湯につけろって云うんだが」
「風呂桶を隊士の数だけ用意したとして、隊士に風呂場で薬湯浸けをやらせるって事になるか」

「桶は、今、十五あります」

 土方は、文机に戻ると、筆を持って、「桶、十五」と書きとめた。

「桶屋に桶をあと三十。届けさせて……」
「悪いが、薬湯作りをお前に頼めるか」
「はい」

 土方は、松本良順から貰った処方を千鶴に渡した。

「あとは褌か……」
「お前が、藤本の為に縫って作った腰帯だが、もしこれから股の具合の悪い奴が出てきたら、あれも必要になる」
「はい」

「だが、先生が言っていたのは、下帯を毎日清潔なものに取り換えろって話だ」
「六尺褌で、陰嚢を綺麗に仕舞えばいいんだと」
「わかるか、俺の言ってることが」
「はい」

 土方は、頭に手をやるとガシガシと掻きむしり始めた。これは土方が、癇が立っている時の仕草だった。

「あれだけ、清潔衛生を心得ろと言っても、褌を変えない奴がいる」
「今夜、隊士を全員集めて、衛生清潔の話をするが。お前に、薬湯の浸かり方、褌を取り替える事を隊士に説明して貰いたい」
「はい」

 土方が「手間を取らせて、済まねえな」と謝るたびに、千鶴は「いいえ、私でお役に立てるなら」と言って首を横に振った。

「会を開くのは、戌の刻だ」
「承知しました」

 千鶴は、土方の部屋から下がって行った。

 

 

*****

衛生指導

 戌の刻、大広間に隊士全員が集められた。土方と千鶴が須弥壇の傍に座り、幹部全員が前に、その後ろに平隊士たちが座っていた。蒸し暑い夜で、隊士は、部屋着の胸をはだけ、袖まくりをし、胡坐を掻いて団扇を持ってバタバタと扇いでいる者も沢山いた。

 最初に土方から六番組の藤本伊之助が股間に出来た病の為に江戸に搬送されたと伝えられた。隊士たちは、ざわざわと騒いでいる。「金玉腫れあがり病だ」「なんだ、どこでうつされた」「壬生の廓か」、そんな声が聞こえてくる。

「藤本の病は、極最近のことだ。雨続きの頃に具合が悪くなった」
「松本先生の見立てでは、人にうつる病かもしれねえってことだ」

 これを聞いて、隊士たちは更に騒然となった。

「静かにしろ。これから、雪村から病に罹らねえようにする手立ての説明がある」

 千鶴は、立ち上がって皆の前に立った。足元には風呂桶が用意してあり、風呂場での薬湯の使い方を説明し始めた。

「薬湯は、用意ができ次第、大浴場の桶の中に入れておきます。必ず、身体を洗ってから薬湯に股間を浸して、十数えてください」

 千鶴は手際よく説明を終えると、次に下帯を手にとって、毎日清潔なものに替えるように念を押した。そして、袋に縫った下帯が用意してあるからと、万が一股間に違和感があれば、いつでも言って来て欲しいと云った。

「下帯は、必ず陰嚢を包んで、内股などに触れないようにしてください」
「こうして、二つ折りにはせずに、一枚で覆うように」

 千鶴の説明を聞いて、隊士の中には、「俺は二つ折りじゃねえと駄目だ」と言い出す者がいた。

「だから、お前はいつも金玉はみ出てんだろ」と誰かが揶揄した。どっと皆が笑い出した。

「二つ折りでも、構いません。必ず、陰嚢を包むようにしてください」

 千鶴は誠実に、何度も念を押している。その間も、平隊士たちは、「風通しが悪いのも良くねえ」「金玉は、風に当ててないと」「陰金になる」と騒ぎ続けている。原田左之助が、後ろを振り返って、「おい、静かにしねえか」と騒いでいる者たちを睨んだ。

「下帯は、毎日洗濯に出してください。清潔なものをお配りします」

 千鶴はそう言って、説明を終えて下がろうとした。その時、平隊士の一人が「聞きたいことがあります」と手を挙げた。

「さっき、金玉は触るなっていってましたが、どうしてもまさぐりたい時はどうすればいいんです」

 この質問に、皆が再び騒然となった。「そうだ、用を足す時は触っちまう」という大きな声。

「用を足される時は、いいです」

 千鶴は慌てて答えた。その声は、平隊士たちの声にかき消された。皆の騒ぎは収まらない。

「じゃあ、なんです。『せんずり』掻きたくなった時は」

 これを云った者は、大股を開いて、右手で股間を揺するような仕草をして見せた。周りに座っている者が大笑いして、一緒になって「そうだそうだ」と騒いでいる。千鶴は、口を半分開けたまま、何も応えずにいる。斎藤は、ずっと静かに座ったまま、千鶴の様子を見ていた。千鶴は、言われている事に理解が及ばない時は、いつもこういう表情をする。

「いくら触るなって言われても。寝てる内に自然に掻いちまう時もあるし」
「金玉にはどうやっても触っちまいますよ」
「なあっ」

 発言した者は、周りに同意させるために、「そうだろ」と振り返りながらずっと大声を上げていた。再び原田左之助が、後ろを振り返り、「おい、お前、静かにしろ」と言って睨みつけた。

「金玉を掻きたい時は、下帯の上から叩いてください」

 千鶴は大きな声で応えた。これには、斎藤達幹部の皆が目を見張って絶句した。まさか、千鶴の口から「きんたま」という言葉が出てくることが信じられない。平隊士たちは、「叩くって」と不満そうな声を上げて、大声で笑いだした。隊士の中には、ひーひーという下品な笑い声を立てる者も居て、幹部達から、「おまえら、煩いぞ」と再び注意の声が上がった。

「雪村さんは、それで事を済ましてるかもしれねえけど」
「それでは、いったい、どうやって雪村さんが『せんずりかく』のか、ここで見せて貰えませんか」

 質問をした隊士が、口に手をやってまるで囃し立てるように「見本、見本」と千鶴に声を掛けた。その瞬間、斎藤は、手に持っていた打刀を持って立ち上がった。閃光が走る。斎藤は、既に切っ先を平隊士の喉元に付けて、思い切り睨んでいた。平隊士は、仰け反った態勢のまま、目を白黒させている。周りの隊士は、腰を抜かしたようになって震えていた。

「よさねえか」

 土方の声が響いた。土方は、千鶴の傍で両腕を組んだまま、物凄い形相で皆を睨みつけた。

「斎藤、下がれ」

 そう言って、土方は立ちあがった。手には、愛刀の兼定を持っている。土方は千鶴を庇うように前に立つと、斎藤に刀を突きつけられた隊士に向かって、「お前は、九番組の平沢だったな」とじっと相手を睨みつけた。平沢は、縮み上がったようになり、ぶるぶると震えながら姿勢を正した。

「大の男が、てめえの股座の始末もできねえのか」

 まるで啖呵を切るように、土方の声が響いた。だが、土方は続きの声は上げずに、大きな溜息をついた。それから、ゆっくりと平沢を睨み返した。

「今夜の話は、衛生清潔の話だ。玉を褌で包んで用心しろ」
「わかったか」

 平沢は、「はい」と神妙に返事をして何度も頷いている。土方は、平沢の周りの隊士にも、「お前らもわかったか」と確認した。冷静な声を出しているが、その表情は鬼の形相そのもので、皆は姿勢を正し、正座して「はい」「はい」と次々に返事をして小さくなっている。

「他に、質問はないか」

 土方のよく通る声が広間に響いた。一同は、沈黙の中静かに頷いた。

「今夜はこれまでだ。風呂の薬湯は、準備出来次第、桶と一緒に大浴場に置いておく」

 土方の解散の声で、集会は解かれた。千鶴は、首を項垂れたまま手に持った桶と下帯を持って立っていた。

「千鶴、良くやってくれた。礼を云う」

 土方が労いの言葉をかけているが、千鶴は首を横に振った。土方の顔を見上げた千鶴は、目にうっすらと涙が浮かんでいた。

「すみません、私の不手際で」

 千鶴は頭を深く下げた。土方は、「お前が気にすることはねえよ」と言って微笑んだ。千鶴は、土方が笑顔を見せていることに気付いていないようだった。皆が広間から出ていったあとに、千鶴はとぼとぼと廊下に出て行った。

 廊下には、斎藤が立っていた。打刀を手に持ったまま、広間から出てきた千鶴に斎藤は声をかけた。

「雪村、俺は台所に麦湯を飲みに行くが」

 千鶴は、ようやく顔をあげた。

「源さんが、夕方に作ってくれたものだ。よく冷えている」

 斎藤はそう言って踵を返すように台所に向かって歩いて行った。千鶴もその後に続いて行った。台所の棚の前に大きな水を張った盥の中に酒瓶が浸けてある。斎藤は、千鶴が取り出した湯呑みに、酒瓶の中の麦湯を注いだ。

「有難うございます」

 千鶴は、斎藤にお茶を用意してもらう事に恐縮しながら麦湯を飲んだ。冷たくて、喉が潤う。斎藤は、二杯目のお茶を湯飲みに注いだ。

「ご苦労だった」

 斎藤が板の間に腰かけて、千鶴に声を掛けた。千鶴も斎藤の隣に座って麦湯を飲んだ。

「わたし……男だったら良かったと思います」

 斎藤が三杯目のお茶を飲む傍らで、千鶴がぽつぽつと話し始めた。

「今日のような事も、拙いばかりで」
「でも、たとえ男でも、剣も使えなくて、隊士の皆さんのお世話も……」
「あんな風にうまく説明できない私は、きっと隊士失格ですね」

 斎藤は、千鶴が新選組隊士になりたいと思っている事に内心驚いていた。横目で、そっと千鶴の様子を見てみると、千鶴は湯飲みを手に持ったまま、ぼんやりと土間の地面を見ている。その長い睫毛の下の瞳はどこか寂しそうで。余程、広間での事を気にしているのだろう。斎藤は、黙ったまま千鶴の湯飲みに、麦湯を注ごうとしたが、千鶴は断った。

 それから千鶴は飲み終えた湯飲みを流しで丁寧に洗い、斎藤はゆっくりと台所の戸締りを手伝った。台所の灯を消して、渡り階段を上がると涼しい風が通って来た。今夜は幾分過ごしやすい。千鶴と斎藤は、ゆっくりと自室に向かう廊下を歩いた。雲間に月明かりが出て、空を明るく照らしていた。境内も青い帷に包まれた中、砂利が阿弥陀堂の向こうまで見渡せるほど明るかった。北集会所は、人気もなく、夜中のように静まり返っている。

 今日は長い一日だった。早朝に藤本さんを送って……。

 千鶴は、廊下から境内をぼんやりと眺めながら、江戸に送られる藤本の無事を願った。

 ふと視線を感じて前を見ると、斎藤が自室の障子を開けたまま、振り返るように千鶴を見ていた。千鶴は、おやすみなさいと挨拶をしようと会釈した。

「俺は、あんたはあんたのままがいいと思っている」

 千鶴は、思いがけない斎藤の言葉に、挨拶の言葉を忘れてしまい。ただ、ぼーっと斎藤の顔を見ていた。斎藤は、いつもの微笑むような表情で。

「今朝は早かったのだろう。もう休め」

 ひと言そう言うと、部屋の奥に消えて行った。

「おやすみなさい」

 千鶴は、聞こえないぐらいの小さな声で斎藤が消えた廊下に向かって挨拶をした。ここ数日の沈み込んでいた気持ちが和らぐような、温かい心持がして。千鶴は、自室に戻り、久しぶりに安らぎ眠りにつくことが出来た。

 

 

*****

 

 その後、藤本伊之助は、江戸の医学所で股間の大手術を受けて、無事に岩を切除した。術後は、療養のために上総の実家に戻り、そのまま京に戻ることはなかった。西本願寺の屯所では、本格的に寒い冬を迎えるまで、薬湯の股洗いが厳格に続けられた。其のおかげで、隊士の中で、藤本のような症状を訴えるものは皆無だった。

 慶応四年、新選組が甲陽鎮撫隊として甲府に進軍した際、後続隊の一員として藤本伊之助は再び近藤の配下となった。藤本を知る者は、「玉なし藤本」と陰で渾名をつけていたが、「玉がないだけに敵の銃弾が当たらない」という勝手なこじつけで、藤本の下帯を我先にと、自分の褌と交換した。嘘か本当かは定かではないが、藤本の褌を締めた隊士は、敵の攻撃をかいくぐることに成功した。こうしたことから、藤本の下帯は大層重宝がられた。中には、交換した下帯を他の隊士に、高額で売りつける者まで出てきた。

 人の好い藤本伊之助は、終始穏やかな性格で誠実に従軍した。宇都宮の戦で、薩兵と一騎打ちの末、藤本が絶命したと伝えられた時、先に会津に居た斎藤たち新選組先行隊は、藤本の死を残念に思い。福良の千手院で手厚く弔った。

 

 

 

 

 

(2020/06/30)

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