鬼火 序章

鬼火 序章

明暁に向かいて その52番外篇 

明治十五年五月

「こんにちは」

 玄関から声が聞こえると、次男の剛志がパタパタと駆けて行った。千鶴は下の子供を抱えて客を出迎えた。

「いらっしゃい。美禰子ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」

 上り口で丁寧にお辞儀をした美禰子は淡い山吹の被布姿で菊模様の色鮮やかな足袋とおそろいの真っ赤な大きな髪飾りを付けている。赤い鼻緒のぽっくりを脱ぐと、剛志に手を引かれてパタパタと奥の部屋に走っていった。母親のお多佳は馬車の御者が運びこんだ荷物を受け取り、お駄賃を払うと千鶴に促されて玄関に上がった。

「今日は子供の着物を持ってきたの。良かったらちいちゃんにと思って」「ありがとうございます」

 お多佳は風呂敷包みを抱えて居間に腰かけた。お膳には昼餉の仕度がされていて良い匂いが部屋に漂っている。子供たちは居間の隅に置いた木箱から毬を取り出し転がして遊び始めた。毬の中には小さな鈴が入っていて、転がる度に美しい音が鳴る。猫の坊やが飛びかかり追いかけるのを剛志が追いかけ、そのあとを小さな美禰子が声をたてて走っていく。

「これ、お被布も脱がないで」

 お多佳は美禰子の手をひいて、角袖を脱がせた。千鶴がお茶を運び、お多佳に一服してもらうと、子供たちを手水場に連れて行き手を洗った。

「さあ、お昼ご飯にしましょう」

 千鶴は子供たちを席につかせ、ご飯をよそおい下の子供を膝に抱っこをして席についた。末の子の千桜は小さな平皿にのった海苔ではさんだ軟飯を小さな指でつまんで口に運んでいる。子供たちもお匙を上手に使って、ほぐした焼き魚や小さく切った野菜の煮物を食べた。千鶴が子供に乳やりをしている間に、お多佳はお膳を綺麗に片付け、お茶を用意して席についた。

「すみません、何からなにまでやってもらって」
「いいの、いいの。剛志ちゃんが美禰子のお相手をしてくれるから。わたしもゆっくりできます」

 庭で子供たちが遊ぶ声が聞こえる。お多佳は、千鶴が下の子供のおしめを替えるのを待って、持ってきた和菓子をお皿に載せて勝手口からでてきた。
「まあ、綺麗な」

 お皿の上には紫陽花をあしらった青紫の小さな練り菓子。向島にある多賀屋は、お多佳が料亭名月で出す茶菓子を調達していた名店。程よい甘みと上質な材料で趣向を凝らして形作られた和菓子は毎回目と舌を楽しませてくれる。お多佳が煎れた新茶は相良の御天領で採れたものらしく、美しい濃い緑は千鶴が京で飲んだ宇治茶を思わせた。「美味しい」千鶴は満足そうに眼を細めて喜んだ。抱っこをされていた千桜は眠り始め、奥の間に敷いた布団に寝かせられた。子供たちは庭の反対側に花を摘みに行きままごとを始めていた。

「今日、お邪魔しましたのは。千鶴さんに相談したいことがあって」

 お多佳の表情はどこか心配そうで、千鶴はなにごとかと思い「はい」と返事をした。

「おさよのことなんです」
「おさよちゃん、おさよちゃんがどうかしたんですか?」

 千鶴が尋ねると、お多佳は頷いた。

「ええ、おさよとやすさんのことです」

 お多佳の呼ぶ「やすさん」は、斎藤の部下の天野邦保のことで、おさよとは四年前の春に祝言を挙げ、以来二人は本所で天野の父方の叔父と一緒に暮らしている。

「前に話しましたでしょう。やすさん、おさよが声をたてて笑ってからでないと横になって休まないって」
「ええ、おさよちゃんの笑い声を聞かないと寝ないってことは聞いています」と千鶴は笑顔で応えた。「祝言をあげてから、一日も欠かさずね」

 お多佳も同じように眉尻を下げるように半分呆れたような表情で笑っている。

「それがこの前、おさよを泣かしてしまったらしくて」
「おさよにも困ったものです」

 お多佳の顔からすっかり笑顔が消えて、悲しそうな表情に変わった。若夫婦のある晩の出来事はこんな風に始まったらしい。

**************

宝毛

 湯屋から戻り晩酌も済ませ、いつものように寝間に灯した行灯の傍で繕い物をするおさよの姿を天野は腕枕をしながら眺めていた。

「おれのお袋さんは、おさよほどじゃあねえが、行き届いたところのあるいいお袋さんだった」

 ふと天野は、子供の頃に亡くなった母親の話を始めた。

「ときどき、そそっかしい事をしちまう」
「俺が六つかそこらの時、虫歯をこさえちまって。お袋が悪い歯はやっとこで引っこ抜くのがいいって医者に言われたって、こーんなでっけえやっとこを角の大工の次郎吉さんとこから借りてきたんだ」
「こーんなでかいのが、こどもの口に入るわけがねえのに。おっかしいだろ?」

 天野は仰向けにごろんとなり両手を宙に拡げて笑い、おさよも頷きながらクスクスと笑い始めた。

「どうしたもんかって、突然思い出したみたいに押し入れから凧糸を取り出して、俺の背丈ほどの長さに切って持って来た」
「糸を俺の奥歯に結んで、もう片方の糸の先をお袋さんは自分の足の親指に結びつけたんだ。こうやって隣に並んで寝てれば、寝ている間に寝相が悪いから思い切りひっぱって歯がぽろっと取れるって算段だ」
「俺はおふくろが添い寝してくれるってんで安心してぐっすり寝むった」
「翌朝、起きると口も枕も血だらけで飛び起きた」

 笑っていたおさよがぽかんと口を開けて驚いた。

「虫歯は抜けたんだ。でも一緒に隣の歯も抜けちまって。いい歯もな」
「痛くなかったんですか?」
「ああ、虫歯は痛くなかったが、奥歯がなくなっちまって、口の中ががらんとしたのは覚えている」
「お袋は、糸の先についた歯を二本、井戸の水で何べんも綺麗にゆすいで玄関から屋根に放り投げて、強い歯が生えてきますようにって手を合わしてパンパンって手打ちして」
「虫歯の後釜は生えてきたんだが、もう一本はそれきり生えてこねえ。お袋さんは、粗忽者の母でごめんなさい。お前の大事な親の歯を間違えて抜いてしまって悪かったって、死ぬまで謝ってた」

 天野は起き上がり行灯の傍で大きく口をあけた。

「ここ、奥から二番目がねえだろ」

 おさよは、天野の口の中を覗いた。確かに右側の奥から二番目の歯がなかった。

「おふくろが抜いたまんま。これだ」

 天野はにっこりと笑った。おさよは頷き優しく微笑んだ。

「もうひとつ」

 天野は立ち上がって、寝間着の裾をもって尻まくりした。くるっと行灯の傍に臀部をもってきておさよに見せた。

「俺の右の尻のここ。ほくろがあんだろ?」

 おさよは持っていた縫物を畳の上に置いて覗き込んだ。

「はい、ございます」
「俺の尻に黒子があるって知ってたか?」
「いいえ」
「おうよ、尻のことは秘密にしてたからな」

 おさよはきょとんとした表情で天野の顔を見上げた。

「自慢じゃねえが、すげえぞ」

 天野は自分で言って満足そうに頷いている。

「よおーく、みてみろ。毛が生えてんだろ」
「毛ですか?」
「おうよ、よおく見てみろ」

 天野はお尻を突き出すような恰好に膝に両手をついてしゃがんだ。目の前に臀部を突き付けられたような態勢で、おさよはつぶさに天野の尻の黒子を観察した。

「はい、生えてございます」
「だろ、よく見てみろ。二本生えてるだろう」
「はい」

 きっぱりとした声でおさよは応えた。天野の臀部の黒子の真ん中から真っ黒な太い毛が枝分かれしたように二本綺麗に生えている。その長さは一寸にも満たないがしっかりと黒子から伸びていた。おさよは視界から逃さないように、片手を畳の上に這わし座布団の横に置いたお針箱をたぐりよせ、中から毛抜きを取り出した。

「見えたか。二本」
「はい、一本ずつゆっくりお抜きしますから、だんなさま、じっとしていてください」

 天野は振り返りざま飛び上がり、おさよの右手首を掴んだ。

「待て、待て」
「今、なんて言った?」
「じっとしていてください」
「いや違う、その前だ」
「そっとお抜きします。痛くないようにしますから」
「嘘いっちゃいけねえよ」
「痛くありませんから」
「おうおう、何言ってんだ」

 天野は慌てた様子で首を横にぶんぶんと振りながら、あぐらをかいた。

「抜いちゃいけねえよ。ぜってえに」

 おさよは不思議そうにまん丸な眼をして天野の顔を見ている。

「いいか、おさよ。これは宝毛ってんだ。普通の毛とは違う、幸先のいいもんだ」
「たからげ?」
「おうよ、宝の毛だ。いいか、これはな、ずっと伸ばして育てる縁起もんだ」
「伸ばすんですか?」
「そうだ。伸ばす。二本でえじにな」

 天野は四つん這いになって再びおさよに尻を見せた。

「これはな、おさよと一緒になってから二本生えるようになった。すげえだろ」

 おさよは頷いた。

「俺とお前の宝毛だ。夫婦となった俺等のために生えてんだ」
「いいか、おさよ。俺はこれをずっと伸ばす」
「今は一寸ぐらいしかねえが、これが伸びたら元結で結わえようと思って」

 おさよが両手で口を覆って笑いだした。天野は調子づく。

「ズボンの裾から出ちまうぐらいになったら、髪結床にいって鬢油をたっぷりつけて髷にしてもらってな」
「もっと長くなったら紐を編んで腰まわりにぐるっと回すってのも」

 おさよは肩を揺らしお腹をかかえてケラケラと笑っている。天野も一緒になって笑った。

「おもしろいか?」

 頷きながら目尻にたまった涙をぬぐいながら笑うおさよを満足そうに天野は眺めた。

「この二つをよおく覚えておいてくれ。俺の右の奥歯がない。俺の尻の黒子に宝毛が二本」
「はい、旦那様のお背中を流すときは毛が抜けないように、わたし気をつけます」おさよは笑顔で頷いた。
「稲妻小僧をしょっ引く前にやられちまったら、いいか、おさよ。この二つが目印だ」

 天野は指を二本立ててゆっくりと念を押した。

「奴は匕首で喉を切り裂いた後に油をまいてそこらを燃やしちまうのが手口だ」
「見つかった時には誰かも判らなくなっちまう」
「そん時は、お前から警視庁の検死掛に右の奥歯と尻の宝毛を確かめてもらうように頼むんだ。いいな」

 無表情になったおさよは突然動かなくなった。次の瞬間両の眼からぽろぽろと大粒の涙がこぼれ、「わあっ」という声をあげたと思うと両手で顔を覆い身体を折り曲げるように畳に突っ伏した。全身が痙攣したように震えている。天野は吃驚仰天した。おさよの悲しみに歪んだ顔と涙を見て、腰を抜かすぐらい驚いた。

「おさよ、どうした」

 何度尋ねても、おさよの慟哭は止まらない。天野はおろおろと床に頬をつけておさよの顔を覗き込み、背中に手を伸ばして擦って起こそうとしてもおさよは全身を揺らすように振り切って泣き続けている。尋常でない声をきいて、先に自室で横になっていた叔父の天野権三郎が飛び起きてきた。障子の外から「何事だ。おさよ、大丈夫か」と声をかけるが、誰も返事をしない。痺れを切らして障子を開けると、若夫婦が二人で畳に突っ伏している。動かぬ足を引きずり跪いた権三郎は、甥夫婦の肩をゆすった。

「だんなさまー」
「おさよー」

 互いが互いを呼び合いぐずぐずと泣き続けていて権三郎が何を言っても顔をあげない。権三郎は怒りだした。

「ええい、いい加減にせんか二人とも」
「ほれ、寝間へ入れ。二人とも。泣き止んで寝ろ」

 足の不自由な年寄りに引きずられ押し込められるように布団に寝かされた二人は、権三郎が部屋を出て行ってからも、ぐずぐずと泣き続けた。

 天野がおさよを連れて空の家に現われた時、出迎えたお多佳は精気を失った二人を見て大層驚いた。

「二人ともげっそり痩せて青い顔をしていましてね。おさよを客間で横にならせて、やすさんから事情をきいたんです」
「あんな大男がこんなに小さくなって、わたしが悪いんです。おさよを泣かしちまったって謝り続けるもんですから、私も気の毒になって」
「二日夜勤が続くから、おさよをお願いしますって虎ノ門に行ってね。すぐに使いを出して、権三郎叔父さんにもうちに来てもらったんです」
「おさよは三日三晩泣き続けてるっていうじゃありませんか。困ったものです」
「千鶴さん、そんなに『稲妻小僧』を捕まえるのは難しいんですか?」

 お多佳が尋ねた時、千鶴の目尻から涙が流れているのに気が付いた。千鶴は俯き右手で目尻を拭いながら答えた。

「私も新聞で読むぐらいのことしか知らなくて。はじめさんはお仕事の話はほとんどなさらないから」
「前にここいらで押し入りがあったんです。網切りの甚五郎を天野さんと津島さんが大捕り物をして。確か上野の庄屋さんで」
「あの時は管轄が大一区第一署だったのに。お二人は隠密捜査していたって、はじめさんが言っていました。大手柄だったと」
「網切りの甚五郎って、別段で見ました。ええ、覚えています。確か、一味全員お縄になったって」
「押し込みに遭ったら家族もろとも皆殺しにされるって聞いてましたから。本当に恐ろしくて。天野さんが捕まえたってきいて安堵したんです」
「そうですか。やすさん、きっと稲妻小僧を追って毎日懸命にお勤めにでていらっしゃるんですね」
「巡察のお仕事は、命と引き換えの大変な勤め。おさよは覚悟しなければなりません」
「わたし、おさよちゃんの気持ち。よくわかります」

 千鶴はお膳に置いた両手を強く握りしめた。

「はじめさんは、職務のことだからっていいます。でも、もしものことがあったら……」
「はじめさんに亡骸の確認をしろなんて言われたら、わたし……きっと取り乱してしまいます」

 千鶴の眼からぽろぽろと涙が零れ落ちた。お多佳が駆け寄り、千鶴の背中を優しく擦った。

「ごめんなさい。今度はわたしが千鶴さんを泣かせてしまいました」
「どうしたらいいんでしょう」

 お多佳は千鶴がひとしきり泣いて落ち着くまで優しく千鶴を抱きしめていた。千鶴は袂から手拭を出して涙を拭い、お多佳は再び台所に立ってお茶を煎れて居間に戻ってきた。子供たちが縁側から家の中に上がり、千鶴はお菓子を水屋から取り出した。お多佳は子供たちを連れて厠に行き手水場で手足を綺麗に洗って戻ってきた。

「さあ、おやつを頂きましょう」

 剛志と美禰子は二人で仲良く並んで座り、冷ましたお茶を飲み干した。おやつを食べ終えた二人は再び庭に下りて遊び始め、千鶴はお多佳と縁側に腰かけて陽の光の中を駆けまわる子供たちを眺めた。

「はじめさんは、昔から必ず戻ると約束してくれています」
「口に出しては云いません。でもお勤めにでる時、「いってまいる」って。必ず戻ってくる。待っててくれって出て行きます」
「京にいた頃もそうでした。はじめさんが市中に出られるのは、斬って斬られる覚悟を持ってのこと。必ず、隊務を終えて戻っていらっしゃるってわたし信じていました」
「私に出来ることは、ご飯を作って待っていること」
「それだけしか、できません」

 微笑んだ千鶴は、奥の間の布団で起き出した下の子を抱っこして戻ってきた。縁側でおしめを替えてもらい、干し芋を細長く切ったものを手に持たされた千桜は、美味しそうにしゃぶるように食べている。

「おさよは、九つのときに親兄弟を全部亡くしましてね。関谷村の上流で鉄砲水があって、家も畑も全て流されてしまいました。おさよと周五郎さんだけが市中にいて助かったんです」
「周五郎さんも翌年には病で亡くなったから、ずっと独りぼっち。わたしと一緒に置屋で暮らすしかなかったものですから」
「やすさんと一緒になって。やすさんだけが寄る辺なんです。あの子がどれだけやすさんにすがって生きているのかって、よくわかりました」
「天野さんはお優しいから。万が一のことを思って。でもおさよちゃんはとっても悲しくなっちゃう。だって、そんなの絶対に嫌ですもの」

 再び千鶴は目尻に溢れた涙を手の甲で押さえるようにして拭い、畳の上に置いていた手拭で鼻を押さえた。

「どんなことがあっても、必ず戻ってくるからっておさよちゃんに伝えてください。天野さんに、おさよちゃんに必ず戻るから待っていろって、伝えつづけるように」
「おさよちゃんは、きっとわかります。天野さんがおさよちゃんの所に必ず戻るって。沢山、天野さんの好物を作って待っていたら。戻ってきます。きっと」

 お多佳は何度も頷いた。笑顔で応えるお多佳の頬にも涙が伝っている。

「ええそうですね。二人にそう伝えます。互いに強い縁でね。信じあっていればきっと」
「ありがとうございます。千鶴さん。話を聞いてくだすって、どうもありがとう」

 お多佳は丁寧に頭を下げて礼を言い、二人で目尻を押さえながら笑顔で頷きあった。それから、お多佳は風呂敷包みを広げ、美禰子が一歳過ぎたころに着ていた着物や洋服を千鶴に見せた。どの着物も上質の生地で出来ていてとても美しいものばかりだった。美禰子が小さかった頃を思い出す。千桜にぴったりの大きさのものもあれば、来年の春先に着られそうな被布もあった。

「まあ、どれを見ても可愛い。素敵なお着物。ありがとうございます。千桜に着せます。嬉しい」

千鶴はお座りをして玩具で遊んでいる千桜の背中に着物や洋服をあわせて喜んだ。お多佳は、そろそろ暇をといって美禰子に上着を着せて馬車で帰って行った。帰り際に、次の週末に土方が八王子に子供たちを連れていきたいと言っていると千鶴に伝えた。

「子供のお祓いにね。子安神社と八幡八雲さまに。豊誠さんと剛志ちゃんを連れて行くって」
「美禰子も秋に七五三詣りを向島と子安神社でと思って」
「でも、剛志が粗相をしちゃうと……」

 千鶴が心配そうに次男のことを眺めた。

「大丈夫ですよ。歳三さんが、お祓いをしてもらえば治るって言ってますし。多摩で泊る家は廊下に出たらすぐに厠がありますから」

 お多佳は千鶴を安心させるように説得した。春先に始まった次男の寝小便は一向に止まず。千鶴の悩み事になっていた。お隣に暮らすお夏は末の子に千鶴がかかりきりで赤ちゃん返りをしているだろうからと云い、土方は知恵がついてきた証拠だから気にするなと云う。それでも、毎日のようにお布団を濡らすようになった次男のことが千鶴は心配でたまらず。一晩中起きて、数刻おきに子供を厠に連れていくようになった。子供は布団から出たがらず、千鶴は抱き上げて廊下にでるが、子供は異常に嫌がって布団にもどってしまう。丸くうずくまり直ぐに寝息をたてるが、半刻もすると布団に大きな池ができてしまうことの繰り返し。父親の斎藤が厠に連れていってもむずがるので、夫婦で頭を抱えていた。

「歳三さんは朝仕事をして、こちらに昼過ぎにお迎えに伺いますから」

 お多佳が言った通り、翌週の昼過ぎに大きな箱馬車で現れた土方一家は、長男の豊誠と次男の剛志を乗せて多摩に出掛けて行った。その日、夕方早くに家に戻った斎藤は千桜と一緒にお風呂に浸かり、早めの夕餉を並べた膳の前に座った。いつもは、騒がしく遊ぶ長男と次男はおらず、縁側で猫の坊やが庭を眺めている。翌朝まで非番の斎藤は晩酌を始め、膝に座った千桜は千鶴に匙で崩した南瓜の煮物を口元に運んでもらい上手に食べた。三人きりの静かな夕べ。一通り食事が終わったら、千鶴はお膳を片付け縁側の傍に座って乳やりをした。眠り始めた子供を斎藤が膝に預かり、千鶴は奥の間に布団を敷きに向かった。異変が起きたのはその直後のこと。膝の上の子供が突然硬直したように仰け反った。斎藤は何事かと思い千桜の頭を抱えて自分に向かせた。空気が震えお膳や壁がピシっと音をたて、目の前の風景が一瞬波打つように歪んだ。腕の中の子供は動かぬまま、ただ尼削ぎにした黒髪が銀色に変わり、頬や閉じた瞼の先に桃色の光が灯ったように輝いている。ゆっくりと瞼が開き黄金の眼に黒い瞳が黒々と渦を巻いている。再び空気が波打った。斎藤は強く子供を胸にかき抱いた。千鶴が奥の間から鬼の姿で現れ、神々しい程の光を放ち斎藤の傍に寄りそい跪いた。暖かい光に包まれる。腕の中の子供の髪の毛が黒髪に戻っていく。頬や睫毛の輝きもだんだんと消え宙をみて唖然としている。斎藤が呼びかけると、ひっくひっくと泣き始めた。「大丈夫だ」といってあやし、元の姿に戻った千鶴と二人で子供を抱えて布団に横になった。子供は斎藤と千鶴に抱かれて落ち着きを取り戻し、すうすうと寝息をたてて眠り始めた。斎藤と千鶴は目を見合わせて安堵した。暫く見守った後、行灯をそのままにして居間に戻り、初めて何が起こったのかとどちらともなく言葉にして確かめあった。

「千桜がひきつけたのかと思った。全てが波打つた。あれはなんだ」
「わかりません。吉祥果と様子が違って」
「そうなのか」
「はい」

 千鶴は腕を伸ばす斎藤のそばに寄り添い優しく抱きしめられた。あたたかい。さっきの共鳴はなんなのだろう。突然全てが震動した。一瞬で姿が変わったのがわかった。あんなに小さな千桜まで。千鶴は八王子に向かった息子二人のことが気がかりだった。もし、同じような目に遭っていたら……。剛志は怖がっているかも。でも、豊誠がついていれば。大丈夫。

「きっと、豊誠たちは大丈夫です」

 斎藤が問う前に千鶴が応えた。その時、庭の植木が風で揺れ小さなつむじ風がおきた。暗闇に草が柱のように舞って、その中心に何かが浮いている。千鶴は斎藤と一緒に裸足のまま縁側から降り立った。草の柱に触れると巻文に変った。

 千鶴様

 八瀬の夕朗衆が弦打の儀を行いました。
 しばらく日没と日の出に続きます。
 強い波動で結界を守る儀式です。
 数百年ぶりのことでわたしも初めてです。
 豊誠ちゃん、剛志ちゃん、千桜ちゃんにも怖がらないように伝えてください。
 弦打ちで力が強くなります。安心してください。
 取り急ぎお知らせまで

 鈴鹿千

 斎藤も文を読み安堵した。千鶴の手をひいて縁側に上がろうとしたとき、庭に明るい光が射した。振り返ると、宙に大きな水色の球体が浮いてくるくると回っている。ゆっくりと球体は斎藤たちの傍に近づいた。輝くような水の粒の塊。中から豊誠の声がした。

 父上、母上、大丈夫ですか。
 剛志は大丈夫。
 歳さん、お多佳さん、美禰子も無事です。
 弦打です。西国で習いました。
 おやすみなさい

 水の粒はキラキラと輝きながら空に昇って消えていった。千鶴は皆の無事を確認できて心から安堵した。斎藤に促され、その夜は千桜と川の字になって休んだ。

つづく

(2023/10/19)

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